脳神経外科医の篠浦伸禎氏と、タイ・スカトー寺副住職のプラユキ・ナラテボー氏の対談本である、「脳と瞑想」を紹介します。
プラユキ氏が初期仏教の瞑想法を解説して、それに篠浦氏が「それは脳でいうとこんな感じ」と推測を述べるような内容です。
篠浦氏は、自身も簡単な瞑想でアルコール依存を解決した体験があるようです。
篠浦氏によると、
” 酒を飲むということは、脳をアルコールで麻痺させて、脳を使うことを放棄しているわけです。
問題を解決する方向に脳を使うのではなく、恐れから逃げているだけなんですね。
けれども瞑想によって恐れや心配などの余分なものが脳から一度取り払われたことによって、脳が一度リセットされ、脳自身が、自分の脳を使うということを目的に主体的に働くようになったという感じがします。”
認知療法の世界でも「体験の回避」が苦しみの原因だと言われているので、問題から逃げることが問題のようです。
プラユキ氏のお寺では、医療関係者も多く研修に訪れるそうで、手動瞑想(背筋を伸ばし手を動かしながら行う瞑想)をメインに行っているようです。
数分行えばその分の効果があるそうで、一般的な心理療法で行われる瞑想よりもずいぶん手軽です。
Googleが実践している瞑想法に似た気軽さがあります。
また、瞑想ビギナーにありがちな間違いについてもいろいろ言及されてまして、こちらも非常に参考になります。例えば、
プラユキ氏によると、
” オウム真理教に限らず、瞑想中にいわゆる神秘体験のようなものをすることが、悟りを得たり、精神の高みに昇ることだと勘違いしている人はまだまだ多いようです。
(中略)ヴィジョンはあくまでもヴィジョンですし、そもそもそういうものを見るのが瞑想の本来の目的ではありません。
たとえ神秘的な体験をしたとしても、それも、怒りや悲しみなどと同じ心の現象。
どんな現象が生じてこようとも、とらわれてしまうことなく、ただただその生まれては消えていくさまを、あるがままに見つめていくことが大事です。”
さらに、プラユキ氏によると、
” 一般に、雑念が浮かんでこずに、心に静けさがあるときだけが「瞑想ができている」状態である、と理解されていますよね。しかしそうではありません。
ひとつの思考が浮かび、パッと気づいて、それを受けとめ、観察し、また手の動きや呼吸に戻ってくる。その全体のプロセスが瞑想です。”
つい雑念がないのがエラいという発想になってしまうので、この点は注意しておいたらいいと思います。
瞑想はあくまで人間の理性を鍛えて、動物的な脳の暴走をしっかりコントロールするための訓練だという感じですね。